パルテヱル物語〜茉莉〜
笑う門には福来る
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「もう。茉莉ったらもう少し余裕をもって起きなさいっていつも言っているでしょう?」
軒先で涼しげに揺れる風鈴の音をかき消すように、茉莉は笑みを絶やさずバタバタと家を駆け回る。
「雛姉様が起こしてくれないから...!あっ!髪飾りはどこかなぁ...??」
「あら、私はちゃんと起こしたわ。髪飾りは、さっき自分で鏡台の前に置いていたわよ。」
「あっ!そうか。あとは...ハンカチはどこだっけ?二階かな?」
大きな瞳を白黒させながら、茉莉は朝の準備に追われていた。
登校時間まであと少し。
焦ってはいる。額に浮かぶ汗がそれを物語っているが、笑顔は絶えない。
とっくに準備を終えた雛菊は、どんな状況でもコロコロと笑う妹を、呆れた表情を浮かべつつ、どこか嬉しそうに眺めている。
あとで汗で崩れたお化粧直してあげなきゃね、と自分の鞄から化粧道具をそっと取り出しながら。
小さい頃、お母様から教わった。笑顔には幸せを集める不思議な力がある、と。
柔和で優しげな表情ながら、眼差しが妙に真剣だったことを覚えている。
その時、茉莉の隣で話を聞いていた雛菊が得意げに口を開いた。
ーお母様、私知っています。ことわざでしょう?笑う門には福来る、よね?ー
「あ!汗でお化粧が…。雛姉様に直してもらおう。」
ようやく身支度が整った茉莉は、雛菊の待つ階下にパタパタと身軽に駆け降りた。
「雛姉様!」
「ここにいらっしゃい」
茉莉の言葉を遮るように雛菊は茉莉を鏡の前に呼んだ。手にはすでに化粧道具が握られている。
雛菊は手際よく、丁寧に茉莉に化粧を施していく。
大好きな姉の優しげな手つきと眼差しに、自然と頬が緩み、顔がほころんだが、穏やかな時間は束の間だった。
「雛姉様!今日學校を終えたら、新しい髪飾りを買いに行こう?あと週末は街で甘味処とお着物を見に…」
「ごめんね、茉莉。今日も週末も姉様は予定があるの。生徒会の用事でね。また今度行きましょう。」
あの方か…生徒会のあの方…物静かだけれど、芯が強く、その誠実さから上下級生の信頼を集めるあの方…
いつからだっけ、雛姉様が生徒会に出入りするようになったのは。
いつからだっけ、放課後や週末、私と出かける回数が減ったのは。
學校での雛姉様はいつも上品に微笑み、優しく、皆と仲良く付き合うが、心の内の奥底は決して他人には見せない。
雛姉様の本当の素顔を知っているのは実の妹である私だけだ。
いや、私だけだった。以前までは。
「茉莉、髪飾りならこれをあげるわ。上級生の柚乃様からいくつか頂いたの。あなたの分もね。素敵でしょう?」
小さくも可憐な手毬のような水色の花の髪飾り。
柚乃様…私のことも気にかけ、優しく親切に接してくれる。でも何故か柚乃様の前ではうまく笑顔を保てない時がある。緊張とも違う、苦手とも違う、心にチクリと棘が刺さるような…
「ほら。そろそろ行くわよ茉莉。忘れ物はないわね?」
雛菊の声に茉莉は我に返った。
「瑠璃茉莉の髪飾り!綺麗ね。さすが柚乃様が選んでくださった物だわ。御礼を伝えなくちゃ。」
「当然よ。柚乃様の目利きは校内一だもの。茉莉が満面の笑みで喜んでいたと私からお伝えしておくわね。」
穏やかに微笑みながら、普段と変わらぬ様子でそう答える雛菊の横顔は、茉莉の目には、ひどく嬉しそうに、そして誇らしげに映った。
チクリ…
茉莉と雛菊は連れ立って家の門扉をくぐり通学路を歩き出した。
茉莉は胸に走った微かな痛みを忘れようと、他愛もない話を次から次へと話し続けた。
そんな茉莉の瞳が不意に、通学路の先の黄色い着物を捉えた。
雛菊といえば、茉莉の話を楽しそうに聞いてはいるが、彼女の目線もまた通学路の先を向いていた。
連れ立って歩いていた雛菊の歩みが、ほんの少しだけ速くなったことに茉莉は気付いてしまった。
チクリ…
柚子の花言葉。
「幸福」
柚子の花の香り。
ほのかに甘く懐かしい香りだ。
雛菊と聞いた母の言葉が思い出される。
-笑顔には幸せを集める不思議な力がある-
私の幸せってなんだろう?
一瞬考えた茉莉だったが、大抵、答えというのはすぐ側にあるものだ。
隣にいる雛菊の横顔をふと見て、
茉莉は思わず吹き出した。
まぁまぁ、雛姉様があんなに嬉しそうに。ほっぺまで赤らめて!
しっかり者の雛姉様の可愛らしい一面。
私にだけはわかる。私にしかわからない。
きっと柚乃様ですら、こんな些細な心模様の変化には気づかないでしょう。
「あ!忘れ物!雛姉様、先に行って!私、取りに戻る!!」
「あなた、忘れ物なんかないでしょう?」
雛菊の制止を振り切るように、茉莉は駆け出した。
笑う門には福来る。
雛姉様、あなたが教えてくれた言葉よ。
私にとっての幸せ。
それは雛姉様が幸せそうに笑ってくれること。
そして幸せを噛みしめる雛姉様をこっそり眺めること。
柚乃様と一緒にいることで、雛姉様が新たな喜びを見つけられるのなら。
私の大好きな雛姉様の笑顔の花が咲くのなら。
私にとって、それほど幸せなことなんてないもの。
茉莉は足を止め、深呼吸をした。
清々しい空気と幸福感が心を満たしていく。
少し離れた所で橙色と黄色の着物がまるで小さな花束のように並んでいる様子を見つめていると、自然と笑顔がこぼれてきた。
私は、大丈夫。お二人が、雛姉様が幸せなら。
茉莉は前を向いて、ゆっくりと、しかし確かに新たな一歩を踏み出した。
前から吹いてきた優しい風が、瑠璃茉莉の花を揺らしていた。
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